創業百年を迎えるにあたっての想い
			
				青木建設株式会社は、創業大正14年、昭和29年に設立しました。あと少しで創業100年を迎えることになります。
先達がつくりあげ積み上げてきた歴史と、未来へと紡いでいく新たなチャレンジとは。
 三代目社長の青木一男と、四代目を継ぐことになる青木和也の青木親子にお話しを伺いました。
快適に安心して暮らせるように、地域と共に
青木材木店として材木屋として始まった当社ですが、その長い歴史は決して平坦なものではなく 紆余曲折があり現在に至っています。
					1970(昭和45)年に青木建設株式会社が設立し初代社長に青木柳助が就任。1976(昭和51)年に長男の青木常雄が二代目を継いだものの、代表就任から僅か5年で病気により他界。1981(昭和56)年に常雄の弟である青木良彌(私の父)が急遽二代目を引き継ぐことになりました。
					それまでは、材木販売から設備販売、注文住宅からリフォーム、公共工事と手広く仕事をしておりましたが、仕事を継ぐ気がなかった父はどうしたものかと。そんな状況の中、1984(昭和59)年に私も青木建設に入社。
					結局、会社は地域密着でそれまでのお客様を大切にとリフォームに力を注ぎ込むように舵を切るようになりました。私は現場から現場へと飛びまわり、一級建築士として設計を担当して、忙しい毎日を過ごしていました。
			
				やはり、先々代の社長が若くして他界してしまったのは、大きかったですね。安全で安心して暮らせる健康でいられる住まいを提供したい。そんな想いを父も私も強く胸に持っていたと思います。
						ただのリフォームではなく、快適で省エネ、耐震性が強くならないとリフォームする意味がないと。そういった意味では普通のリフォーム会社とは少し違っていたのかもしれません。
						
						プライベートでは結婚し、長男の和也が生まれたのが1989年(平成元年)。子どもにはとにかく元気に育ってもらいたいと思っていました。3人の息子と1人娘に恵まれ、皆、体格も大きくそれぞれスポーツに力を発揮するようになり、家族で全力で応援したものです。
何度目かの結婚記念日だった1995(平成7)年1月17日。
						阪神・淡路大震災が起こりました。
						一級建築士であった自分に、運命的に“お前にしかできないことがあるだろう”と、天からの声を聞こえてきました。多くの命を奪う大地震、住宅の耐震化に目覚めたのです。
						ここからリフォームに、耐震工事という二本柱で仕事を進めて行きました。
						
						2001(平成13)年先代の勇退に伴い、三代目社長に就任。
						「お客様の住まいの不安を取り除き安心をお届けします」という企業理念を、社員で共有し、日々その目標に向けて業務に取り組むようになりました。
						お客様との信頼関係をなにより大切にする弊社では、市役所や自治体との繋がりを多く持ち、住まいに係る助成金などの有益な情報をいち早くお届けできる環境を構築するようになりました。
				生涯現役、そして“ピンピンコロリ”そんな人生を全うしたいと考えています。
					そのためには健康がなにより大切。その健康を考えたとき、「身体の健康」、「心の健康」、「住まいの健康」の3つがあることに気がつきました。
					私たち工務店は、住まいを通して「健康」な環境を提供すべきだと思っています。
					地球温暖化が進み、異常気象があたりまえになりつつある今、仕事を通して何ができるのかをいつも考えています。
					そして、考えたことは行動に移さなければ何も変わらない。
					ひとりひとりが”自分にもできる”という気づきを感じられる、そんな活動にも力をいれています。
					住宅の省エネルギーの推進にとどまらず、再生可能エネルギーの普及、かしわエコドライブラリー、かしわエコツアー、かしわ市民ソーラー基金事業など企画提案し、人と地球にやさしいエコライフの実現をめざして活動を続けています。
					
					おかげさまで、三人の息子も健康に育ち、孫たちに囲まれて、また新しい何かを行動に移す時が来たのかもしれません。
					新しい世代にバトンを渡し、青木建設が築いてきた歴史に上積みするもよし、革新するのもよし。
					健康な住まいを提供するという芯さえブレなければ色々なことにチャレンジしてもらいたいと思っています。
新しい青木建設、ここからこれから
			平成元年生まれで幼い頃から、祖父と父親の仕事を近くで見てきました。
					建築会社、工務店というイメージよりも、地域とのつながり、お客様とのつながりが強く多くの人で賑わっていた会社という印象が強く残っていますね。
					スポーツが得意で特に高校でラグビーというスポーツに出会ってからは大学(日本体育大学)・社会人(三菱重工相模原ダイナボアーズ)と合わせて16年間ラグビーに夢中になっていました。
					
					4兄弟の長男という事もあり、ラグビーに区切りを付けるタイミングで家業の門をくぐり4世代目としてバトンを受けるべく今に至ります。
				16年間のラグビー選手生活もチームとしては三菱重工相模原ダイナボアーズが、トップリーグに昇格するまでにかなりの時間がかかりました。自分の影響からか自然と3歳離れた弟(次男)の祐樹もラグビーを始め、東洋大牛久高校、日本体育大学と自分と同じ道を辿り、クボタスピアーズで先にトップリーグで活躍する姿を見ていました。
					
					父が60歳手前になり、自分自身も30歳に近づきラグビー選手生活の引退と長男として会社を引き継ぐことを考え出した頃、念願のトップリーグ昇格を果たしました。
						弟とトップリーグという舞台で闘う姿を親に家族に見せたい。それよりも自分自身が祐樹と勝負したい。
						その想いが2019年に実現することができました。
ラグビーで学んだことは、今の仕事にも活きています。
						ラグビーは1チームが15人ととても人数が多い競技です。ですが、一人でも違う方向を向くとゲームが壊れてしまう。家づくりも一緒で、設計者、営業、現場監督、職人と、同じ方向を向いてないとうまくいかないと思っています。 FB(フルバック)というポジションでしたので、一番後ろから皆の息遣いを感じながら全体を見渡し司令を出す役目でした。
						ですから、家づくりも俯瞰してチームをまとめお客様の想いをカタチにする役目に向いているのかなとも思っています。
						
						デザインカーサに取り組んだのも、建築家と私たち地元の工務店が手を組み、顔を見ながらお客様と想いをひとつにワンチームで家づくりを行える。決して建築家に投げっぱなしにするのではなく、話し合いながら三者納得の上で進めることができる所が気に入ったからです。
						
						長い歴史を持つ会社ではありますが、ここから。
						1から積み上げて行きたいと思っています。
						創業百年、会社設立して70年。
						安全・安心で健康な住まいを提供するという芯は変えずに。
						新しい風をここから、これから。一歩づつ積み上げて行きたいと思います。